リフォーム・リノベーション専門雑誌「プランドゥリフォーム」に掲載中のコラムのウェブ版です。
牛丼初体験は高校一年、山手線駒込駅近くにある養老乃瀧の養老牛丼だった。「牛肉一筋80年」という吉野家のCMが世の中を席捲していたころ、「♫養老牛丼500円!」というフレーズも耳の奥底に残っているが、そんな時代のことである。土曜日、午前中で終わる高校からの帰り道、駅に向かっていると「腹減ったなあ、牛丼でも食べて帰ろうか」という話になり、友人たちと暖簾をくぐった。席につき、そろって牛丼を注文する。噂通り本当にあっという間に出てくる牛丼。これを一口食べて、わたしは「なんて美味しいんだろう!」と感動した。わたしの予想を遙かに超えていたのだ。「牛肉って、こんなに美味しいのか?500円なのに」と思ったが、食べ慣れてるように見えた友人たちの前では、平静を装って見せた。
わたしは埼玉から都内に通っていたが、友人の多くは江戸っ子。下手をすれば 「埼玉には牛丼がないのか」とバカにされかねないからだ。母校は東京の下町のお坊っちゃんが通うミッションスクールだったから、友人たちは牛丼に限らず牛肉料理を食べ慣れてると思っていたのだ。いまとなっては笑い話のように思われるかもしれないが、中2までのわたしにとって牛肉といえば、ほぼ一択でステーキだった。ステーキと焼肉以外、明確に牛肉を食べた! という確かな記憶がない。小樽の小学校に通っていたころ、ビーフステーキは「ビフテキ」と呼ばれ、庶民にとっては憧れのメニューだった。いまならトリュフがかかったフォアグラくらいだろうか。
大人にとっては食べられないほどのものではないけれど、庶民の家庭、特に子供には敷居が高いものだったのだ。かの天才バカボンにもビフテキというのが出ていたと思うが、食べたことがある子供はほとんどいなかった。我が家ではわたしが小学校中学年になったころから、夏休みや冬休み前後に、一度ずつくらいレストランに行くのが行事になっていた。そして決まってステーキを食べた。わたしが住んでいた小樽郊外の小さな町には、寿司やラーメンの店はあったが、レストランはなかった。洋食を出す店すらなく、当然、ビフテキを置いている店はない。そんな環境下で、坊ちゃん育ちの父親は姉が中学に上がる前にナイフとフォークくらい使えるようにと考えたのだろう。家で予行練習をしてレストランに出かけることになったのだ。
戦後没落した名家で育った父親もレストランに行きなれているわけではなかった。父は出張先で泊まったホテルのレストランに行っていたせいか、レストランといえばホテルのレストランという認識だった。そしてレストランといえばビフテキだったのだ。おめかしして出かけたわたしたちは、慣れないフォークとナイフで食事をした。これでは憧れのビフテキの味を楽しめるはずもなく、美味しいよりも緊張の記憶が残った。その後の埼玉生活で、牛肉の焼肉を食べたり、牛肉の味噌漬けをもらったりと、徐々に牛肉を食べることになるわけだが、思い返すと北海道時代は、鶏肉、豚肉、羊肉の生活だった。町の市場にあった肉屋の店頭には、豚、鶏、羊の肉が並び、牛肉などは皆無だった。まったく置いていなかったわけではないのが、奥の冷蔵庫に大切にしまわれ、注文客用となっていた。この感覚、若い人にはわからないだろう。学生時代から、自分のお小遣いで焼肉を食べている世代には……それだけ豊かになったということも。
昔でも小樽や札幌の街中に行けばもちろんステーキ肉を売る店はあったが、庶民には縁遠い存在だった。その一方で、羊肉は実に近いところにあった。マトン、ラム……いまの豚バラよりも気軽に買える庶民の味方だった。いまのように、ラムが豚の小間切れの倍近い時代からすると天国だった。特にマトンは安くてお買い得!少々硬い肉のこともあったが、噛みごたえがあってそれも悪くなかった。いまなら臭いがきついという人もいるだろうが、当時はそれが当たり前で、なんとも思っていなかった。だから、いまは香りの薄い肉ばかりで寂しいくらいなのだ。
ただ昔のマトンには困った点がひとつだけあった。ロール肉は、様々な部位が丸く成形されているのだが、その中には筋張った部位も含まれている。しかも細長く続き、これが切れにくい。焼いた肉にタレを付け、何度か咀嚼したあと、肉を飲み込むわけだが、その際に先端は喉の奥に落ちかけているのに、肉の末端が口の中に残ってしまうことがある。つまり先端と末端の間の筋の部分が喉に引っかかってしまうのだ。こうなると大変。ゲゲ、ゲッッとなり、人はお行儀もヘッタクレもなく、口の中に手を入れて、肉を引っ張りだすのであった。わたしはこの作業を一度もやったことがないまま育った人を真の道産子といっていいのだろうか?とさえ思う。そう思うほど、道産子の通過儀礼なのではないか? と考えているのだが、みなさんは経験しているのだろうか。
北海道遺産、つまり「次の世代へ引き継ぎたい有形・無形の財産の中から、北海道民全体の宝物」に認定されたジンギスカン。道民食であソウルフードでもあるジンギスカンだが、いままできちんとした形で継承されてきたといえるのか? 現時点でも、ちゃんと引き継ごうとしていないのではないか? と、わたしは疑問に思っている。例えば、ラムを使っているだけで安易に「ジンギスカン」という名前を付けてしまっていることだ。ジンギスカンの唐揚げ。ジンギスカンサンド、ジンギスカンバーガー等々。ジンギスカンは羊肉と野菜をあの独特な鍋で焼いて食べる“料理法を含む”鍋料理である。しゃぶしゃぶも同じ料理法を含んでいる。だから、薄切り肉を焼いてしゃぶしゃぶという人はいない。お店でタジン鍋やちりとり鍋を土鍋で出すわけがない。ジンギスカンは、ジンギスカン鍋で調理しながら食べてこそジンギスカンなのだ。
最近は、豚や鶏、鹿肉でもジンギスカンと称している。豚ジン、鶏ジンというように、明らかにジンギスカンをアレンジしたことがわかる表記なら、それもありだ。しかし、豚肉や鶏肉を焼くときにジンギスカン鍋を使わないなら、それは豚肉や鶏肉の焼肉でしかない。味付けの豚肉を網焼きして、ジンギスカンなどといっていたら、北海道遺産が泣くというものだ。アメリカで生まれたカリフォルニアロールという巻き寿司があるが、これはあくまも「カリフォルニアロール」。江戸前寿司ではなく外国の寿司とわかる表記だからいいのだ。昨今は海外でひどい寿司らしきものが横行しているのを見てみなさんも目をひそめているはずだが、日本人が違う料理にしてしまってはいけない。
かつて東京にはパイナップルを入れたジンギスカンがあった。「やっちまったな~!」と思ったが、東京ならまだいい。彼らにとっては食文化でも遺産でもない羊肉の焼肉でしかないのだから、笑い飛ばそう。でも……道民はジンギスカンという自分たちの食文化を守っていくことが使命ではないか。野菜などの具材をアレンジするにしても、道内で栽培できるものだけにていただきたいと思う。
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