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 漫画禁止の家で育ったわたしは、漫画といえば友人の家や理容室で読む程度だった。少女漫画にいたっては、姉に薦められた「ベルサイユのばら」と「エリート協奏曲」以外の少女漫画を読んだことがなかったのだが、高校時代、夕方に再放送されたアニメ「キャンディキャンディ」や「エースをねらえ!」が流れると、いわゆる帰宅部だったわたしは、くいいるように見るのが習慣になっていった。 「水戸黄門」から少女アニメへと流れていく男子高校生を想像してしまうと、気持ちが悪いと思われるだろうが、それがわたしのルーティンだったのだ。
 時が経ち、五十代に突入するころ、パーティで「キャンディキャンディ」の絵を描いていた、いがらしゆみこさんと会い、共通の知人である故石ノ森章太郎先生の話で盛り上がるのだから、人生というのは実に面白い。 「キャンディキャンディ」には、主人公の幼馴染で初恋の人でもあるアンソニーという裕福な家で育つ男の子が登場する。不幸にも若くして亡くなってしまうのだが、このアンソニーは薔薇の品種改良をするくらいの薔薇好きで、物語には「アンソニーのばらの門」なるものが登場する。
 広い敷地に、ばらの門とローズガーデン。まるで貴族が住むお城のような光景と、アンソニーという美少年。当時の少女たちは、貧しいながらも明るいキャンディに、自分を投影して夢中になった。
 一方、埼玉の狭い団地に住む高校生のわたしは、「アンソニーのばらの門かあ、オレの家にもあったっけな、借家だけど」と、思っていた。
 わたしが幼稚園から小学校のころに育った家は、小樽のはずれにある海水浴場と工場の町にあった。高度成長期ということもあり、札幌のベッドタウン化が進んでいるエリアでもあったが、我が家のまわりはまだまだ未舗装の道路も多く、空地は草むらとなり、夏になるとキリギリスの声が鳴り響くような田舎そのものだった。
 国道5号線沿いに、背の高い土塁のようなクマザサが生えた壁のようなものがあり、その切れ目から家の敷地に入ると、そこにはスチールに白の塗装がしてあるアーチがかかっていた。
 アーチにはつる薔薇が絡み、カッコよく言えば「ばらの門」である。実際はところどころがさびている白いアーチで、アンソニーのばらの門とは比べものにならないものではあったが、大学時代のコンパでキャンディキャンディ好きの女の子に会うと「オレの家には、ばらの門があったんだよね。だからアンソニーと呼んでくれ~」などと、酔っぱらってはくだらないことをいったりするくらいの「ネタ」にはなる門だった。
 当時の我が家には、たしかに「ばらの門」があったのだが、ばらの門には、葡萄も絡んでいた。
 その脇には、桃の木もあり、秋には葡萄と桃が美味しい実をつけた。
 家の軒先には、苺が実をつけ、家庭菜園にはスイカやメロンも横たわっていた。マクワウリやトマト、ナス……。
 いま考えると、きわめて質素な生活をしながらも、野菜や果物を育てられるいい環境にいたのだ。
 路地植えというか、軒下に植えられた苺は、プロが作るような冬や春先に収穫できるような代物ではない。初夏といえるような時期に食べごろになることが多いのだが、正直、できてみないとわからない。


  白っぽい実がついて、だんだん赤身を帯びてくるころになると「そろそろ食べてもいいんじゃない? ひとつ味見してみようかなあ」という気になるのだが、そう思っているのはわたしだけではなく、父は出勤前にチェックし、帰宅後にも育ち具合をチェックしていた。
 うっかり食べてしまうと、父親にどやされる。おまけに、苺だけにはうるさい姉という怖い存在がいる。我慢、我慢である。
 わたしや姉は朝、学校に行く前は焦っているので、苺には見向きもしないのだが、学校帰りにはじっと観察し、「もういいよね」「そうだよね」といい、母に採る許可を申し出る。母が帰宅した父に、進言し、そこでやっと収穫を迎えるのである。
 桃の収穫の時期はもっとシビアで、完熟の見極めは父の判断のみだった。
「もういいころじゃないかなあ」
「いや、まだだ」
「じゃあ、明日?」
「明日見て決める。明日でも早いかもしれん」


 こんなふうに、なかなか許可が下りないのだが、父親の見極めは実に鋭く、桃はやわやわになる一歩手前の甘い時期に、食卓に並ぶ。
 一度にいくつも完熟を迎えると、切ったりせずにひとり一個を丸ごとガブリ。
果汁がほとばしるのを感じながら、「おいしい!」の連呼となる。
 父親という暴君が君臨する家は、和気あいあいとか、穏やかとは言えない家庭環境ではあったけれど、こういう瞬間瞬間は温かい家庭そのものだった。
 ところが、秋口になり葡萄の季節になると、「待つ」ということができなくなってしまう人間が現れる。子供ではなく、父親である。
 出勤前に、一粒二粒……と食べ、帰宅して玄関に入る前に、また数粒食べてしまう。子供には待たせて、自分は食べるのだ。
「お父さん、ずるい」
 そう思っても、そんなことを言える雰囲気の親ではなく、わたしはこっそりと真似をする。バレないように、数粒だけ。罪悪感と、スリルがまた葡萄の実を美味しくするのだ。
 そんなわけで、一番いい時期に収穫したときには、かなりの数が減ってしまうので、食卓に並んだときは、父もわたしも姉や母に遠慮していたように思う。
 我が家には、葡萄や桃の木のほかに、姉が生まれたときに植えたサクランボの木と、わたしが生まれたときに植えた梅の木があった。
 子供の誕生を記念して樹木を植え、子供の成長とともに見守る。我が家にそんな風習が昔から続いていたのかどうかはわからないが、親子をつなぐ絆のような木だった。
 残念ながら、わたしが小学校五年のときにはじまる父の転勤人生によって、桃の木も梅の木も、実をつける前に手放してしまった。やっと手に入れた土地付き一戸建てのマイホームも、人手に渡り、両親も他界、残るのはわたしと姉の記憶の中だけである。
 すすきののはずれにある我が家の周辺を散歩していても、当時の我が家のような緑に囲まれた家を目にすることは少ないけれど、近所には秋に栗がたわわに実る家がある。
 ギンナンの実をたくさん落とす公園もある。
 どちらも拾って持って帰りたい衝動に駆られるが、私道や公園で拾ったものを持ちかえるわけにはいかないので、じっと我慢。そんなとき、ふと父親の顔が脳裏に浮かんでしまうのだ。
 遠い記憶の我が家での暮らし。電話は「呼び出し」だったり、ビデオもなければインターネットもない不便なことも多かったけれど、自然の恩恵を受けたいい時代だった。還暦を前に、もう一度、自然のなかで暮らしたい気がしている。


コラム『植物も動物も守る社会へ』

 日本各地で、犬や猫の殺処分をゼロにする取り組みが進んでいる。市民の意識が少しずつでも高くなっているのはうれしいことだが、実際はまだまだ悪質なブリーダーや販売業者や飼育放棄する飼い主によって、命を落とすペットも少なくない。マイクロチップの義務化などという業界の利益になるような方法ではなく、ペット保険の義務化やブリーダーの免許制度の厳格化、生体展示販売の禁止など、飼育や繁殖、つまり動物側ではなく、人間側に守らせる義務を課さなくては、この問題は解決しない。
 いま進められている法整備では不十分。さらなる検討は明らかに必要なのだが、それにはもう少し、犬猫を飼っていない人たちの理解が必要かもしれない。とはいえ「殺処分」というむごい行為を目の前にすれば、人は心を動かさられるのだが、植物の場合はさらに理解されにくい。花が好きで花壇やガーデニングを楽しんでいる人が、自然公園法や森林法違反という犯罪に手を染めていたりもする。
 アツモリソウ、レブンアツモリソウ、ヒダカソウといった高山植物が、国立公園などから盗掘されている。高山植物には絶滅危惧種も少なくないのだが、自分の所有欲のために自然を壊し、盗む。現行として捕まえにくい場所に生息しているだけに、被害は増えるばかり……。こちらももっと厳しい法整備や対策が必要と思う。


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