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 サッカーW杯が終わり、来年は日本でラグビーW杯。再来年は、いよいよ東京オリンピック。冬季五輪は札幌、長野と2回経験しているけれど、夏の五輪は1964年の東京以来の開催。税金の使い方としてどうなのか?という問題では、いまだに納得できない部分もあるけれど、徐々にオリンピックが持つ興奮と期待感がわたしたちの心のなかに、芽生えてきたような気がする。
 前回の東京オリンピックが行なわれていたころ、わたしはまだつかまり立ちもできない赤ん坊だった。おむつをしてハイハイしている状態。オリンピックの記憶はまったくない。 五輪の記憶で一番古いのは1968年のメキシコシティ・オリンピック。帽子のつばを後ろにして走る宇佐美選手が途中で脱落し、首を振りながら走る独特のフォームの君原健二選手が銀メダルを取ったマラソンのシーンをまだ白黒だった我が家のテレビで見たのを鮮明に覚えている。
わたしが最初に記憶した五輪選手、君原さんは、わたしにとっての最初のヒーローだった。首を振って走る真似をするほど、憧れていた。それから十数年後。彼の本『人生の走り方』をプロデュースすることになるとは……人生とは実に面白い。

 メキシコ五輪が行なわれた1968年ころ、わたしはちょうど小樽市内で引っ越しをした。札幌近郊では、マイホームを建てるのがブームになり始めたころに、我が家は公営住宅から、平屋の職員宿舎に移ったのだ。引っ越す前の公営住宅には風呂がなく、母屋の近くにあった小屋(誰が建てたのかは分からない)の中にある粗末な風呂に入っていた。ガラスをはめ込んだ窓すらなく、木の格子を開閉させるという時代劇に出てくるような灯とりと、板をぶら下げたようなダッシュ島の舟小屋についているタイプの窓しかなかった。一応、裸電球がついてはいたが、中に入ったときは、ほぼ真っ暗。いまの子供なら、怖くて入れないだろう。
 小屋の外にある釜に薪を入れ、お湯を沸かすのは、両親や祖父の仕事。まだ幼かったわたしは、姉と一緒に父に連れられ、母屋から風呂場へ。夏は楽しかったが、冬は凍りそうだった。雪が舞う日でも、吹雪の日でも、寒い外を通って小屋に向かった。薪で沸かしたお湯は、適温で入るのが難しい。
 熱いと思っても、混ぜてみてたらちょうどいいこともあれば、混ぜても熱過ぎて入れないこともある。そんなときは、窓から手を外に伸ばし、積もった雪を湯船に入れて温くした。雪があっという間に、お湯の中で消えていく様が面白くて、つい入れ過ぎてしまう。子供というのは、面白いことは飽きずに続けてしまう生き物なのだ。お風呂であたたまった身体も、家に入る前に、キーンと冷やされる。服を着ているが、真冬に露天風呂に入りに行くときに、味わう寒さと同じだ。 露天風呂を出て身体が冷えても、またすぐ内風呂に入って身体をあたためられるが、母屋に入っても、そうはいかない。
 そもそも家の中に風呂があったら、小屋には行かないのだ。そこで、競うようにストーブの前を陣取る。まだ石炭ストーブの時代。身体をあぶるように近づけ、前を向いたり、背中を向けたりしながら、暖をとるのだ。なんとも、昭和な世界。「北の国から」よりもさらに、戦後を感じる生活だったかもしれない。
 引っ越し後、家のなかに風呂がある生活がはじまり、そんな不自由からは解放されたが、薪をくべて焚く生活は続き、薪割りや風呂焚きは小学校にあがったわたしの仕事となり、苦痛になるわけだが、そんな生活も4年生で終わりを告げた。
我が家にもマイホームの時代がやってきたのだ。

 親戚が岩倉組の専務だったこともあり、注文住宅を建てた。その家は、なかなか凝った作りで、1枚板の木製ドアや作り付けの本棚がある父の書斎があり、2階の廊下からは日本海が見えた。 お風呂は電気温水器。もう薪割りもなければ、薪に火を着けて、湯加減を調整する必要もない。  
 室内は大型の石油ストーブで、いつも暖かく、湯冷めする心配もない。丹前やはんてんのような、昭和チックで田舎くさいものを着ることもなくなり、我が家では、みんな突然、ガウンなどという、しゃれたものを着るようになった。我が家の文明開化だ。  
子供部屋も洋室で、フローリング。それまで4畳くらいの部屋に2段ベッドと机を2つ置き、もうなにもおけないような姉と一緒の子供部屋から、6畳とはいえ、クローゼット付きの個室をもらえたわたしは、舞い上がった。
ただ、それまでは庭で枯れ葉を燃やし、芋を焼いたりできていたのが、家屋が密集している住宅地ゆえ、そういう楽しみはなくなった。


 母親も突然、グラタンなどという食べたこともないものをつくり出したりして、食生活まで洋風になっていったのには、驚いた。パンや蒸しパンを頻繁に作るようになり、スパゲッティの回数も増えた。同時に、ジンギスカンは催促しないと出てこなくなった。
 いま思えば、両親は新築の家でジンギスカンをしたくなかったのかもなあと、思うのだが、当時のわたしはそれがとても不満だった。
そんな当時、もっとも楽しみだった夕食は、カレーとクリームシチュー。北海道で育った人なら、共感してくれると思うのだが、我々が子供のころ、「シチュー」といえば、あの白っぽい、クリームシチューのことだった。
ビーフシチューなど、見たこともなければ、食べたこともなかったのだ。ハヤシライスにしても、食堂に行けばあったし、「カレーもいいけどハヤシもね」のCMで、存在は知っていたけれど、あれがシチューの仲間だという認識もなかった。シチュー=クリームシチュー。これをカレーライスのように、ご飯と一緒に皿に盛り、さらにバターをその上に、ドカ〜ンとたっぷり。バターがシチューの熱で溶けていくのを確認し、おもむろにご飯と一緒にすくい上げ、かき込むように、口のなかに入れていく。
 「ちゃんと噛んで食べなさい」母の声を右から左に聞き流し、さらにスプーンをすすめ、「おかわり!」である。こういう何でもない日常が実はとてつもない幸福な時間だった。
楽しかったマイホームでの生活は、ほんの1年足らずでおわった。 父親の転勤でまた借家生活に逆戻り。しかも、北海道を離れ岩手へと向かうことになったのだ。 引っ越しの準備をしながらも、想い出づくりと思ったのか、買ったばかりのナイフとフォークを使って「ビフテキ」を食べた。
 牛肉といえば、ビフテキ。憧れのビフテキ。「ハワイに行った」と自慢するくらいの勢いで、「ビフテキ食べた」と、お笑い草にもならないビーフステーキを食べて、思いきり贅沢をした気になった。あのころを思うと、つくづく豊かな時代になったものだと思う。 当時を思い出して、今夜はビフテキでも食べよう。湯冷めすることもない家のなかで。

【コラム】牛と北海道

 酪農大国であるはずの北海道だが、家計調査年報等を見てみると、牛乳の消費は全国平均を下回るほど低い。意外に思えるが、販売価格が安いことと、ソフトクリームなど、生乳以外の乳製品の消費が多いことを考えると、まったくおかしな話でもない。
 道民はチーズが大好きだし、バターも大好き。雪印によつ葉、トラピスト…バターにこだわる人も多く、バター醤油ご飯も北海道ほど流行った地域はないだろう。 しかし、肉という意味で牛は近年まであまり浸透していなかった。すき焼きも豚、カレーも豚、肉ジャガも豚という豚肉文化で、子供のころは牛肉をメインで売る店そ
のものがなかった。
 いまでは白老牛や十勝牛などのブランド牛も増え、我々の食卓にも、日常的に載る時代となったが、いまでも豚肉や鶏肉のほうが好き」という人は少なくない。わたしは北海道遺産ジンギスカン応援隊の隊長であり、羊肉至上主義者だが、牛肉も好き。
 北海道の牛肉も大好きだ。今後は肉牛の生産地として、北海道がこれからも注目を浴びてほしいと思う。そのために、ジンギスカンに次ぐ、名物に成りえる牛肉の料理法が生まれてくれないものだろうかと期待している。


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