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 小学四年のころだっただろうか。ある日、我が家に1メートルほどの丸太が、5本ほど運ばれてきた。当時、我が家の風呂は薪を焚いていたので、最初は薪にする木材だと思っていたのだが、石炭や薪を入れていた石炭小屋ではなく、なぜか家の塀に傾けて置かれた。きれいに5本並べて。「これはな、椎茸が生えてくる木だ。ここに、菌を埋めてあってな、何週間かすると椎茸が生えてくる」
 父の話では、椎茸農家が古くなった原木を処分する際、まだ生えることは生える古木を知りあいに分けてくれたものを譲り受けたということだった。
 小学校に入ってから、キノコ獲りは、父とわたしの年中行事になっていた。自転車で上れるだけ坂を上り、道がなくなったところから、藪をかき分けてラクヨウを探す。
 全行程で、6、7時間だっただろうか。小学生には過酷な作業で、いま考えると虐待に近い気がするが、泣き言をいうと雷が落ちるので、しぶしぶ付いていくしかなかった。
 そんなときに椎茸の原木の登場である。「これでもうキノコ獲りから解放される」と思ったのは大間違いで、原木の観察という仕事が増えただけだった。昔の子供は、なんだかんだと親の手伝いをさせられたのだ。
 わたしは、いまだにキノコが食べられない。一番嫌いな椎茸の場合、においを嗅いだだけで吐き気がする。これは、子供のころのこんな経験がトラウマになっているような気がするのだが、当時、椎茸が育っていく様子を見るのが嫌だったわけではない。
 なにも生えていなかった原木から、小さな粒のような椎茸が出てきて、日に日に大きくなっていく様子は、見ていてなかなか楽しかったのだ。「網で焼いて食べるとうまいんだよなあ」「ちょっと醤油たらして」「バター焼きも美味しいよね」といった会話を聞くのは、味をイメージしてしまうので、あまり愉快ではなかったけれど、椎茸の成長を見ることそのものは、楽しい記憶として残っている。もちろん、この椎茸を焼いたときに発する嫌な臭いもだが…。
 我が家は度々ジンギスカンをやったが、鉄板焼きをすることも多かった。父が職業訓練校の板金科の教員をしていたこともあり、父が作った大きな天板の焼き台をガスコンロの上に置き、肉や野菜、焼そばなどを焼くのだが、そのときに、家庭菜園で獲れた野菜がたくさん登場する。
 ピーマンにナス、椎茸…。子供が嫌いな野菜ワースト3といっていいような野菜が、である。
 ピーマンは小学校に入って間もなく克服したけれど、椎茸もナスもいまだに食べられないのは、このときのドカーンと嫌なものが視界を覆った体験のせいなのではないかと思う。
 素人は収穫時期をずらすことなく一辺に植えるので、毎日毎日、同じ野菜が食卓に上ることになる。その上、月に一度の楽しみの鉄板焼きでとどめをさされたら、「もう見たくもない」となるのは、自然ではないだろうか。ま、贅沢な話といえばそうだけれど。


 鉄板焼きは、キノコやナスの時期が終わると、いよいよ楽しくなる。寒い季節になるとはいえ、魚も肉もおいしくなる。昔は、キンキもいまのような高級魚ではなく庶民の魚だった。牛肉は滅多にお目にかかれない代物だったけれど、マトンは食べたいだけ食べられた。

『ぽっかぽか』という漫画を原作とした昼のドラマが二十数年前に放送されていて、そのドラマでも「父焼そば」という、父親役の羽場裕一さんが焼そばをつくるシーンがあるが、我が家でもなぜか焼そばは、父が作った。
 大きな鉄板にラードをたっぷり塗って、豪快にガシガシとまぜ、たっぷりと作る。野菜が焼かれていたときは、大人しかったわたしも、このときとばかりに、がっつくのだ。
 料理上手だった母の味とは違い、いかにも男の料理で、味が濃く、油っぽいのだが、子供時代のわたしにとっては、ジャンキーな味が合っていた。
 父が作った鉄板は、お好み焼きにも使われていた。ただ、いま考えると、父が作るお好み焼きは随分と本流のお好み焼きとは違ったように思う。
 それは父が「のべ焼き」というお好み焼きに似たメニューのある名古屋出身だから、ということも理由なのかもしれないが、寄せ集めの情報を組み合わせて作っていたからかもしれないし、ただの思い込みかもしれない。
 まず具はとてもシンプルだった記憶がある。小麦粉にキャベツと豚肉、玉子に桜エビ。それだけだ。
 焼き上がったら、かつお節をのせ、ソースではなく、醤油をかける。当時、「ソースなんかかけるのは田舎もん。東京では醤油をかけるんだ」という父親の言葉を疑うこともなく聞いてたわたし。しかし、それから数年後、岩手、埼玉と引っ越しを繰り返すうちに、「東京でも大阪でも、広島でも、東北だっ
て、醤油かけないじゃん!」という事実を知ることになる。
 そして、「誰にも偉そうにこの話をしてなくてよかった〜 赤っ恥かくとこだった」と思うのだった。
 父親が作った鉄板の焼き台は、埼玉時代にホットプレートなるものを手に入れるまで使い続けた。
 もっとも活躍したのは、小学校高学年のころに食卓に突如として登場した「ホルモン焼き」が、瞬く間に我が家で流行ったころである。


 我が家では肉を焼いて食べるといえば、基本がラムやマトンで、豚や鶏はあくまでも脇役だったのだが、あるときから、ホルモンが登場! 一大ブームになった。 
 最初は父の肴として鉄板に上がったのだが、わたしや姉が食べてみたら、びっくりするほど美味しい。

「お父さんだけ、食べてずるい!」ということで、ホルモン中心の鉄板焼きの日も恒例になったのだ。
 思い起こすと、このホルモンは豚の腸でもかなり薄っぺらいものだった。いま世間で人気の和牛でもなく、脂の少ない安いホルモンだった。ニンニクやショウガをきかせつつも、甘味のあ
るホルモン。これが子供にとってはご馳走だったのだ。人間は記憶をすり替える動物なので、もしかしたらちょっとは辛みもあったのかもしれないが、じゅわっと甘い印象が強い。
 そして、明確に覚えているのは、ホルモン焼きで飯を二度はお替りして食べていたこと。
 ジンギスカンやカレー以外では、あまりお替りしなかっただけに、ここの記憶には自信がある。 
 大人になり、自分が主体となってBBQを楽しむときは、炭火を使って網焼きをすることが多くなった。
 その度に、焼肉屋より「うまいなあ」と、思う。安い肉でも、業務用の焼鳥でも、自然のなかで炭火で焼けば、高級店の店にもない味に感じられる。これがたまらない。
 でも、ふと子供のころの鉄板焼きも同じだったのではないか?と思う。大嫌いな椎茸がのっていても、ほかのものがおいしかった。
 子供のころに鉄板で食べた味は、同じように食べたものが美味しかっただけではなく、家族でわいわいいいながら食べたことが、何倍も美味しくしていたのだ。
 北海道の美味しい食材をさらに美味しくいただくには、やっぱり家族や仲間だなあと、両親をなくしたいま、しみじみと思う。

コラム『西と東の食文化』

 北海道では肉ジャガの肉は豚。家庭料理のカレーも豚が長年、主流だった。いまでは、チキンやビーフという家庭も増えたが、昭和の時代の炊事遠足を知る人なら、スライスした豚肉だったことをよくご存知のはずだ。
 関東には豚で肉ジャガを作る人も数多くいるが、関西人は牛以外考えられないという。カレーに豚をいれるといえば「ほんまかいな」といわれそうだ。
 このように西と東は、牛肉文化と豚肉文化でわかれているため、ホルモンも西日本でいうホルモンは、テッチャン(シマチョウ)と呼ばれる「牛の腸」が主流。一方、旭川の塩ホルモンやホルモンの町ともいえる北見も、豚が主流。ホルモンでも西と東では違うのだ。
 しかし、歴史的に見ると、豚肉文化を長年支えたのは、沖縄や薩摩。いまも薩摩黒豚や沖縄のアグーが有名な南国であり、西日本である。 
 依田勉三の「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」に象徴される北海道と、南国が同じ豚文化なのだ。
 不思議なことに思えるが、実は南九州は、北海道と同じく、茶わん蒸しが甘いという共通点もある。
 とかく西と東で、罵りあうことが多いけれど、北海道と九州・沖縄は食文化を通して、仲よくなれそうな気がする。現地に飛んで確かめてはいかがだろうか。


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